広告デザインの要諦
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広告デザインの要諦効果


広告デザインの要諦全体性


広告デザインの要諦奉仕性


広告デザインの要諦考究

広告デザインの要諦効果

デザインといえば、ビジュアル(視覚に訴えるもの)を対象とする、と考えるのが一般的だ。まちがいではないものの、しかし満点には程遠い。

ビジュアルにのみ集注した広告は、キャッチーであっても、最後の説得力に欠けるものが多い。たとえるなら、奇声を発して耳目を集めることには成功しても、その行為が何らの関係性の発展に寄与することなく、寄行に終わる――

広告にせよ他の表現にせよ、パブリックに向けた発信の最終的な価値は効果にある。 望む効果を生み出すために、デザインという技術・知術はある。デザインというものをそう捉えるとき、ビジュアルの審美性は必ずしも第一義ではない。

「水切り」という遊びは、石が水の上をはねるのを楽しむが、そのときの石を選ぶ基準は石のビジュアル、審美性ではない。よりよく水を切ってはねそうな「機能的フォルム」とそこからの効果に基準をおく。それと同じである。

広告デザインの要諦全体性

ビジュアルよりも全体性のデザインに注力する――といってピンとくる人はデザインが分かっている。文でいえば文脈、知でいえば体系といったように、デザインの価値は全体性にある。

目立つビジュアルはアイキャッチにはなるが、そのビジュアルが価値のすべてを担うのは芸術としての写真(絵画)ぐらいのものだ。広告においては、たとえ小さな文字であっても、機能の説明や価格のほうが写真よりも効果としては大きいことがある。

このようにデザインには全体性を価値の前提とするパーツごとの役目がある。まとめると、デザインとは望む効果のための全体性の計画、ということになる。

広告デザインの要諦奉仕性

広告や商品のデザインで重要なことのひとつに奉仕性がある。有り体に言えば「サービス性」だ。広告は情報であるから、「価値の高い情報提供」というのが奉仕性の実践になる。

しかし、ここで多くの広告がミスをする。相手(ターゲット)にとって価値の高い情報よりも、おのれが顕示したい情報を前面に出してしまうのだ。鼻息荒く「売らんかな」精神を出しすぎれば、まるで逆効果である。商品・サービス名をやかましく連呼するだけのものなど、政策ゼロ、中身ゼロで走り回る選挙カーとかわらない。

ネット常時接続の時代では、欲しい情報はだれでも自分からとりにいく。押し売りはある種のストーカー行為だ。それを「積極性」などと解釈するのは、奉仕性からかけはなれた下手な広告の典型である。

また、より具体的な要素に、視覚的奉仕性というものもある。デザインの制作段階において、その色やかたちについて制作サイドが侃諤の議論にエネルギーコストを割くことは多い。だが、奉仕性の論理が脱落していれば、そのエネルギーコストの大半は効果という目的にたいして無駄である。

たとえば、デザインの主たるターゲットが60代以上であるにもかかわらず、白っぽい背景の上に黄色の文字を乗せたりする。制作サイドは「鮮やかな黄色で活気と若々しさをアピールする」などと言って。しかしそれは無知からの悪手である。独り善がりの感覚にすぎない。老人性の白内障による眼球の黄濁は、黄色が認識しづらくなるという科学的根拠が脱落している。そのような内輪の盛り上がりから出力されたものは、概して奉仕性がなく、非効果的だ。

奉仕性の欠落は、かならず効果に影響する。どれほど一流のビジュアルを使っていようと、広告の効果は減じてしまうだろう。奉仕性がデザインのキックオフであり、効果がゴールである。

広告デザインの要諦考究

デザインの手段が主としてデジタルに移行してからというもの、技術ばかりが前に出て、内容の等閑なものが増えた。手段である技術(道具)の〈効果〉への影響度は、およそ二割程度ではないか――デザインに20年以上かかわってきたものとして思うところだ。

今日日、フライヤーやWebサイトの生成自体はタダ同然の価値となった(AIでもできる)。そこでプロの技術・知術の価値をうち立てようとすれば、効果のための論理と仕掛け、考究に制作の重心をおくしかないだろう。

デザイン物を、私はよく氷山にたとえる。氷山の海面上の部分(見える部分)は海面下の約7分の1にすぎないといわれているからだ。デザイン(広告)というものもまた、知的深化を迫られている時代である。